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柴田豪子著
「キャッチ・ミー」(プロローグ)


「キャッチーミー」(プロローグ)は2005年6月上旬まで週二回(火、金曜日)、配信が続きます。その後、6月11日の舞台「キャッチミー」へと続きます

第1話 2005年05月10日掲載
第2話 2005年05月13日掲載
第3話 2005年05月17日掲載
第4話 2005年05月20日掲載
第5話 2005年05月24日掲載
第6話 2005年05月27日掲載
第7話 2005年05月31日掲載
第8話 2005年06月03日掲載
第9話 2005年06月07日掲載
最終話 2005年06月10日掲載




第1話
2005年5月10日掲載

 音楽が心に沁みる瞬間がある。それはまるで『心』の液体を、『からだ』というリトマス試験紙が吸い込んでいくかのように・・・。二度と聴きたくない音楽なのに、耳がその音を探してしまうのは何故だろう。その音を聴くとイヤな思い出が甦ってしまうのに・・・。


 「ニューヨークに転勤した奥野さん、結婚したらしいよ」

同僚からその言葉を聞いたとき、私のからだから彼との思い出がガラガラと崩れていく音が聞こえた。私は頭の中で誰の話しなのか、繰り返し、繰り返し整理しようとした。努めて冷静に、冷静に・・・。

 「誰?」
 「やだ、電博広告の奥野さんだよ。知らなかったの?若桜(わかさ)、奥野さんとよく仕事してたじゃん」
 「へぇ・・・」

それ以上の言葉は見つからなかった。急いでこの場を離れなければ、そして確かめなければ・・・。

 「このパスタの味、ムリ」

食欲など当に無くなっていた。喉の奥から込み上げる感情に押しつぶされそうだった。私はランチのパスタを半分以上残し、仕事に託けてその場を立ち去った。


 奥野は大手広告代理店の営業で、マーケティング会社に勤める私とよくチームを組んで仕事をした。
 6歳年上の彼は、一見気弱そうな感じのする男だったが、その容姿とは裏腹に、強引に仕事を進める知性とパワーを兼ね備えていた。
 3年前の誕生日、初めてプライベートで食事に誘われた。お洒落なレストラン。極上のワイン。そして黄色いバラをプレゼントしてくれた。彼のスマートな行動は私を充分酔わせた。そしてその夜、私と奥野は深い関係になった。


 パスタ屋を出た後、急いで国際電話をかけた。ここ半年間、連絡が取りにくくなったその番号を押す指が震えた。コールしても出ない電話。ニューヨークはまだ夜中前。留守電にもならないコール音を聞きながら涙が溢れてきた。

結婚して引っ越した?

考えたくも無い言葉が脳裏を掠めた。『結婚』という言葉が現実味を増して、石のように重く伸し掛かる。今すぐニューヨークへ飛んでいきたい。そして、会って確かめたい。あの時出した自分の答えを今更ながら後悔した。


 銀座近くの高層マンション。曇り空はやがて雨を降らせたが、その場所にいるとそれすら気づかないほど二人だけの空間となった。奥野に抱かれながら見る雨空は、雲が波のように折り重なり、その大海原の中で彼は何度も「若桜」と私の名前を呼んだ。彼を肌で感じながら、私は何度も絶頂へと誘われた。
 奥野がその話を切り出したのは、2度目の行為のあとだった。ベッドでまどろむ私に、シャワーから出てきた彼が言った。

 「ニューヨークに転勤になる」

第2話
2005年5月13日掲載

 休日の昼間、セックスをするとこうなるのだろうか?私は奥野が言った言葉を、しばらく理解できずにいた。

 「ニューヨーク?」
 「うん、しばらくあっちかな」

濡れた髪をタオルで拭きながら、まるでコンビニにでも行くかのように彼は言った。

 「いつ、行くの?」
 「今月中には発つよ」
 「今月って、あと20日もないじゃない」

彼は涼しげに笑うとミネラル・ウォーターをグラスに注ぎ、それを一気に飲み干した。

 「若桜(わかさ)も飲む?」

私の返事を待たずに、彼は同じグラスにミネラル・ウォーターを注いだ。そしてベッドサイドに置くと、おもむろにオーディオの電源を入れ、お気に入りの音楽を部屋中に溢れさせた。

どうしてそんなに冷静でいられるの?
もうすぐ、一緒にいられなくなるのに・・・。
離れ離れになるのに・・・。

彼の冷静な態度は私を苛立たせた。

 「若桜もシャワー浴びておいでよ。フランス人が経営してるレストラン、予約してあるんだ」
 「行かないっ!」

私はムッとして、裸のままバスルームへと向かった。彼は追いかけてきて、後ろから私のからだを強く抱きしめた。

 「何、怒ってるんだよ」
 「怒ってない。痛いから離して」
 「離さない」

彼は私のうなじに優しくキスをして耳元で囁いた。

 「若桜も一緒に行こう」


 奥野が結婚したと聞いてから、自問自答を繰り返す毎日を送った。仕事にも身が入らず、上司からはミスを指摘された。
 忘れよう、忘れようと、すればするほど奥野を思い出してしまう。頭の隅で、奥野が知らない女と生活している姿を想像しては、心臓をギュっとつかまれたような、胃を強く押されたような苦痛を味わった。

このままじゃ、ダメになる。

私はニューヨークに行く決心をした。奥野にメールを送り、会社へはわがままを言って1週間の休暇をもらった。

会って確かめよう。

トランクに荷物を詰め終わり、パソコンのメールをチェックすると、新着メールが届いていた。・・・それは奥野からのメールだった・・・。
第3話
2005年5月17日掲載

 あれから何日過ぎたのだろう。無駄な休暇を、私はただ部屋で過ごした。奥野からのメールは私の心を全て灰色に塗りつぶし、見るもの全てから色を奪った。
 遠くで雷の音が聞こえ、ポツリポツリと雨が降り出した。3階の部屋の窓からブラインド越しに外を見ると、隣の屋根に大粒の雨が打ちつけ、乾いた朱色の屋根はやがて深紅に染まった。他の色は目に入らず、その屋根の赤さだけが目に焼きついた。

この赤さは何だろう?
この雨は何だろう?
この空は何だろう?

あの時と同じ空なのに、奥野の部屋から見た空と、まるで違う世界にいるように思うのは何故だろう。私は、世の中全てが存在する意味さえ分からなくなっていた。自分の存在すらも・・・。


「ニューヨークへは来ないでほしい」

 優しさのかけらも感じられない、冷たすぎる奥野のメール。これが3年間愛した男が残す『最後の言葉』なのかと思うと悲しくてやりきれなかった。私は、父や母に聞こえないよう、声にならない声で泣いた。しかし、押し殺しても、押し殺しても、うめくような泣き声を止めることは出来なかった。

とにかくニューヨークに行く。

私は奥野に返信せず、成田エクスプレスに乗るため東京駅に向かった。


 東京駅で電車を待つ間も、奥野のメールが頭から離れなかった。
 6月という時節柄、一目で新婚だと分かるカップルたちが、私のまわりで式の話やら旅先でのこと、これからの生活のことなど、目を輝かせて話をしていた。花嫁の頬はピンク色に染まり、花婿は愛しげにその顔を見つめる。ふたりでいれさえすれば何事にも立ち向かえる強さ・・・。
 花婿の顔に奥野の顔がダブり、私の目に涙が溢れた。
 電車到着のアナウンスが流れ、地下を走る成田エクスプレスのライトが、新婚カップルの未来を照らすように真っ直ぐな光を放ち、ホームに滑り込む。幸せなカップルを乗せるこの電車が、私に「乗るな」と言っているような気がしてくる。遠くで聞こえる笑い声に怖気付き、私の足は前へと進むことが出来なかった。
 発車のベルが鳴り、ドアが閉まる―。
 私はもう二度と会わないであろう奥野を思い、その場に泣き崩れた・・・。


次回へ続く(2005年5月20日掲載予定)

第4話
2005年5月20日掲載

 久しぶりの会社は私に居場所を与えてくれた。どんなに悲しくても同じように朝は来るし、同じように時間は過ぎる。同僚に「休暇はどうだった?」と聞かれ、「結局、風邪を引いて寝てた」と嘘をつき、何事もなかったかのように振舞う毎日。仮面をつけて生活していると、その仮面のほうが本当の自分なのではないかと錯覚さえしてくる。こうして時間が経てば、奥野を忘れることが出来るのかもしれないと私は思った。

全然、あなたがいなくても平気・・・。

強がりな私の心は、呪文のようにその言葉を繰り返した―。


 梅雨が明け、通勤電車から学生がいなくなる頃、私は上司の代理で、クライアントが主催する飲料水のパーティーに出席することになった。銀座のレストランで行われる華やかなパーティー。大手ブランド会社が発表する飲料水のパーティーとあって、マスコミや芸能人、業界人でごった返していた。
 私は一通り名刺交換を済ませると、大好きなシャンパンを口に含んだ。グラスの中で細かい泡が浮かんでは消えていく。まるでグラスの底で誰かが呼吸しているようだと、私はその泡をぼんやりと眺めていた。
 何杯くらい飲んだのだろう?血液がシャンパンゴールドになったころ、遠くから『思い出したくない記憶』を蘇らせる音楽が、私のからだの中にズカズカと入り込んできた。その音は徐々に大きくなり、私の心を動揺させた。

あの曲だ・・・。
奥野が気に入ってた曲・・・。
いつもかけてた曲・・・。

何故、忘れようとする私を悩ませるのか?その曲を聴くと泣き続けたあの日々を思い出してしまう。私は曲が聴こえない安全な場所へ逃れたいと思った。

急いで、急いで、急いで―。

人を掻き分け、出口へと向かう。ドンッと鈍い音と共にシャンパングラスが床に落ちる。

「大丈夫ですか!?」

私はトレイを持った青年とぶつかり、持っていたシャンパングラスを落としていた。

「大丈夫」

青年は急いで御絞りを持ってくると、怪我はないかと訊ねた。優しい声だった。私は青年の顔をまじまじと見つめた。青年はどこまでも澄んだ瞳をしていた。

目が・・・回る・・・。

その瞳に吸い込まれるように、私はその場に倒れた。それが、私と悠介の出会いだった―。


次回へ続く(2005年5月24日掲載予定)

第5話
2005年5月24日掲載

「動物園っ!?」

 数寄屋橋交差点で自分でも驚くほど裏返った声を出していた。

「うん。ゴリラ、見たいんだよね」

 悠介はいつも突拍子もない事を言ってくる。一言で言えば、今まで付き合ったことのないタイプ。悠介が決めるデート場所は「なんでそんなトコなの?」といつも私を驚かせた。駄菓子の問屋街散策。かっぱ橋の食品サンプル巡り。市ヶ谷の釣り堀見学。デパートの屋上見物。ニュースポットや、お洒落な店を好んだ奥野とは全く別の人種だなと、あらためて悠介を見つめた。

「なんで、ゴリラなの?」
「今度、エチュードで動物の動き、取り入れてみようかと思ってさ」
「エチュードって何?」
「んー、簡単に言うと、練習用の即興芝居かなぁ?」
「ふーん。で、ゴリラ?」

 悠介はミュージカル俳優を目指しているフリーターで、私より5歳年下だった。彼は銀座のレストランでバイトしながら、ワークショップや、ダンス・スタジオに通い、いつ訪れるか分からない『チャンス』に備えていた。

 夢を追いかけている年下の彼氏―。

 悪くない響きだなと思う自分と、大人のデートを求めている自分がいた。


 パーティー会場で倒れた私は、近くの救急病院へと運ばれた。父と母が留守にしていたため、家族と連絡が取れない私に悠介が付き添ってくれた。救急の患者が出入りする大部屋は、白いカーテンでそれぞれのベッドが区切られ、その中で私は点滴をうたれた。そして、点滴をうっている私の左手は、側にあった悠介の手を無意識に握っていた。寂しかったのかもしれない。何かにすがっていたかったのかもしれない。あの日の私は、奥野の『音楽』に心を乱され、拠りどころを探し求めていたのかもしれない。悠介の手を握りながら、私は深い眠りについた―。

 しばらくして「お礼がしたい」と、悠介を丸の内にあるフレンチの店に誘った。落ち着いた店内に、ピアノ演奏。悠介は「場違いだな」という顔をしながら、私の目の前でぎこちなく座っていた。その照れくさそうな顔が可愛くて、私は思わず吹き出してしまった。悠介もつられて笑っていた。
 こんな気取った店じゃなく、ガード下の焼鳥屋の方が喜んだのかも・・・。なんだか申し訳ない気がして、前菜だけ注文し、ガード下の焼鳥屋へふたりで走った。それから悠介と私は意気投合し、ホッピーを飲みながら長い時間語り合った。

 帰り道、酔った勢いもあり、私たちは手をつないで歩いた。そして、人気のない銀行の駐車場でキスをした。何度も何度も交わすキス。悠介と私はゆっくりと唇を動かしキスを味わった。こんなに長いキスをしたのはいつ以来だろう?激しくて、優しくて、それ以上を求めたくなるキス。
 悠介は私の唇から自分の唇を離すと、小さく「ごめん」と言った。私はその言葉をさえぎるように、両手で悠介の唇をふさいだ。

「謝らないで・・・」

 私たちはその後も長いキスを交わした―。

次回へ続く(2005年5月27日掲載予定)
第6話
2005年5月27日掲載

 動物園に着くとすぐ、悠介の携帯電話が鳴った。チケット売り場を目の前に、悠介は「ちょっと待ってて」と言って携帯に出た。

 誰からだろう?

 耳をそばだてなくても聞こえてくる相手の声。

 女の子だ―。

 私と一緒に居て初めてのことだった。悠介の口調から同じくらいの年齢の子だと思った。「遅刻しないでよ」と言う声が聞こえて、私は悠介と電話の相手との関係をグルグルと頭の中で想像した。
 私の知らない悠介。私と話すときとは別人の悠介。大学生のノリで話す悠介。若い子と話すときはこうなるのか―。そう考えて、妙に自分がオバサンになったような気分になってゾッとした。

「じゃ、土曜な」

 悠介はその子と会う約束をした。いつの土曜だろ?その子は誰?凄く気になったが聞くのが怖かった。それに、悠介の前では色々聞きたがる"オバサン"ではなく、聞かない"大人の女"でありたかった。

「若桜、来週の土曜さ―」
「悠介」

 私は悠介の言葉をさえぎった。

「カレー食べたい」

 悠介のように、突拍子もないことを言ってみた。でも、これじゃまるで子供だ。

「え?あぁ、じゃあ・・・」
「海に行こう」
「海?」
「そ、七里ヶ浜で海見ながら、カレー食べよ」

 今度はまるで奥野のようだと思った。シチュエーションにとことんこだわる奥野。
 この突然の提案は、悠介の世界に対する私の反抗だったのか?それとも私の世界を魅せつけたかったのか?とにかく『動物園でゴリラ』じゃなく『海で食事』がしたかった。

「車じゃ混むけど、電車ならすぐだし」
「・・・うん、じゃ海に行こう」

 あっさりと悠介は承諾してくれた。

 私たちは東海道線で藤沢駅に行き、そこから江ノ電に乗り換えた。七里ヶ浜駅で降りると、久しぶりに潮風を吸った。心地よかった。波の音とトビの鳴き声に導かれ、悠介と手をつないで134号線沿いのカレー屋に向かった。こうして海沿いを歩くなんていつぶりだろ?私は思い出を辿りながら店までの道を歩いた。
 店に着くと、2階の入り口から1階の駐車場まで席を待つ客で溢れていた。「すごいな。何時間待ちだろ」と悠介は目を丸くした。予約しておけばよかった・・・奥野なら絶対予約したな・・・。奥野のスマートな態度が懐かしかった。この分じゃ2時間は待たされる。私は待つのがイヤになり、カレーじゃないけど、とその近くのイタリアンの店に悠介を連れて行った。最高のもてなしに、最高の料理。私好みのワインが揃っている店。そこはよく奥野が連れてきてくれた店だった。

「また、場違いだなぁ」

 悠介はサラリと言った。

「悠介も少しずつ大人にならないとね」

 私は悠介をからかった。
 30分ほど待って窓際の席に案内された。海を横目にメニューを開く。「うわっ、高いな」と悠介がボソッと言った。いつもなら気にならない言葉なのに、その日に限って妙に癇に障った。女の子からの電話が原因だったのかもしれない。

「どうせ私が払うんだからいいでしょ」

 意地悪な言葉が私の口から出た。

「悠介に払えると思ってませんから」

 その言葉を聞いて悠介の顔色が変わったことに私は気付かなかった・・・。

次回へ続く(2005年5月31日掲載予定)
第7話
2005年5月31日掲載

 食事中も、食事後も、悠介は無口だった。それは、怒っているというより、静かに私の話を聞いている、という言葉のほうが当てはまるかもしれない。店を出て海沿いを歩いていても私の話に相槌を打つだけで、いつものはしゃいだ悠介はどこかへ消えてしまった。

 この子は私といて楽しいのだろうか?

 ―遅刻しないでよ―と言った女の子の声を思い出す。同い年の子ならこうはならないのだろうか?5歳の年の差は私を不安にさせた。

「なんで、あんまり喋んないの?」

 波の音にまぎれて聞いてみた。

「そんなことないよ。喋ってるよ」

 明らかに喋ってないのに、喋ってるなんて大人の男みたいだと思った。

「そんなにゴリラ見たかったの?」
「見たくないよ」
「じゃあ、なんで怒ってるの?」

 怒ってないよ―。私の心の方が先に答えた。

「いつも悪いなぁと思ってさ。高い店は若桜に出してもらってるから」

 前を向いたまま悠介が言った。

「何それ?イヤミ?」

 イヤミじゃないことはわかっている。なのに、私の口は止まらなかった。

「こっちこそ悪かったわね。いつも無理やり高い店に連れて行って」

 イヤな女だ。本当に嫌気が差す。どうしてそんなことしか言えないのか、自分でもわからない。

「そんなつもりで言ったんじゃないけど、誤解させたんならゴメン」

 謝られると余計罪悪感にさいなまれる。私は黙ったまま七里ヶ浜駅に向かった。
 悠介は私の後をついてきて、静かに手をつないできた。優しく暖かい手だった。ギュッと握り返して、悠介が歩きにくくなるくらい腕に纏わり付きたかった。それなのに私の強がりな手は、イヤイヤ手をつないでいるフリをした。

 駅に着き電車を待つ間、私たちは黙ったままベンチに座っていた。

「来週の土曜、何かあるの?」

 気になっていたことを、そっけなく聞いてみた。

「え?ああ・・・」

 言いにくそうだなと思った。それ以上聞きたくない気がした。

「言いたくないなら、言わなくていい」
「言いたくないわけじゃないよ」

 近くで踏切が鳴る。

「来週の土曜さ―」
「女の子と会うんでしょ」

 一瞬、空気が止まった気がした。
 藤沢行きの江ノ電がホームに滑り込む。
 私は悠介を無視し、独り電車に乗り込んだ。

次回へ続く(2005年6月3日掲載予定)
第8話
2005年6月3日掲載

「若桜!」

 悠介の声が私を追ってくる。私は悠介から逃げるように進行方向へ向かって歩き出した。周りの乗客が、何事かと私たちを見ていたが、そんなの気にならなかった。とにかく悠介の顔を見たくない。話したくない。これ以上悠介と話したら、私はもっとひどいことを言ってしまいそうだった。たかが女の子からの電話でこんなに動揺するなんて―、情けなくて涙が出そうだった。
 先頭車両まで行って悠介に追いつかれた。何食わぬ顔でドアにもたれ、外の景色に目をやる。すでに陽は落ち、街灯と民家からもれる明かりの中を、電車はスルスルと走り抜けた。開いた窓から潮気を含んだ冷たい空気が流れこみ、遠くで波の音が聞こえる。

 なんでこんなことになっちゃったの?

 今さら後悔しても遅いのに、私は何度も何度も心の中でそう呟いた。
 悠介は、困惑したような、悲しいような、何とも言えない表情で私の前に立っていた。私たちは間違いなく、今までとは違うシチュエーションで向かい合った。

「どうしたんだよ、今日」

 悠介が静かに聞いてきた。

「何が?」

 私も努めて冷静に答えた。

「『何が』って、怒ってんじゃン」
「別に怒ってないよ」
「それって、電話のせいなの?」

 そうよ―、と言いたかったが、その言葉をグッと飲み込んだ。

「別に誰と会おうと、悠介の勝手だから―」

 なんて馬鹿なんだろう。これじゃ電話のせいだと言ってるようなものだ。

「若桜が気にすることじゃないよ」
「だから、気にしてないって。別に他の女の子と会ったって構わないよ。それに、同い年の子の方が楽しいよ、私なんかと遊んでるより」
「本気で言ってんの?」
「本気よ」
「若桜はどうなの?」
「何が?」
「俺といて楽しくないんじゃないの?」

 そんなことない!

 そう素直に言いたかったのに、よりによって私は最悪な言葉を悠介にぶつけた。

「そうだね、子守してるみたいだもん・・・」

 悠介は、今まで見たことがないような悲しい目をして私を見ていた。悠介の澄んだ瞳を曇らせてしまったのは私だ。いつも明るい悠介をこんな風にしてしまったのも。
 藤沢駅に着くまで、私たちはそれ以上会話をしなかった。

 もう、終わりかもしれない・・・・・。

 そう考えたら涙が溢れた―。

次回へ続く(2005年6月7日掲載予定)

第9話
2005年6月7日掲載

 それから数日間、私は悠介に連絡を取らなかった。悠介もまた連絡をしてこなかった。
 あの日、悠介は最後まで黙ったままだった。「じゃあ」と言って帰るうしろ姿が、私の心に焼き付いた。

 あんなことを言われて、悠介からかけてくるワケがない。

 それでも私はどこか期待をしていて、携帯が鳴るたびに悠介じゃないかとドキドキした。お風呂に入っていても、トイレに入っていても、携帯から離れた隙に悠介から連絡があったら、と思うと携帯を手離せなかった。

 まるで高校生の恋愛みたいだ―。

 私はいつからこんなに臆病になったのだろう?
 悠介に電話をかけて素直に謝ればいいのに。自分が悪かったと言えばいいのに。

 子守してるみたいだもん―。

 あの時言った自分の言葉を思い出し胸が痛んだ。


 会社にいても悠介のことが頭から離れなかった。くさくさした気持ちを静めるために、昼休みを利用して日比谷公園までブラブラと歩いていった。
 公園近くのオフィスビルに太陽が反射して眩しい。それと同じように、公園の木々も太陽をいっぱいに浴びてキラキラ輝いていた。
 花屋の脇を通り過ぎ、噴水のある広場に行くと、シュワシュワ舞い上がる噴水の中に虹が架かっていた。私は思わず「わぁ」と小さく声を上げ、しばらく虹を眺めていた。
 売店でジュースを買いベンチに腰掛けると、人間馴れした鳩が私の足元まで寄ってきた。

 ここは穏やかだな・・・。

 犬を散歩させている人。本を読んでいる人。お弁当を食べている人。
 公園の緑も、噴水の水も、ここにある全ての生が輝いている―。
 子供たちが走って来て、わざと鳩を追い立てる。バサバサバサッと、飛び立つ鳩の群れを目で追いながら、私はその先の青空に目をやった。

 真っ青で眩しいくらいの空―。

 そういえば悠介とのデートは、いつも気持ちの良い青空のイメージがある。
 プカプカ浮かんでいる雲を見つめながら、私は悠介のいる『青空』に戻りたいと思った。


「来週の土曜さ―」
 あの時、悠介は何を言おうとしたのだろう?バスタブ―心を落ち着かせるメリッサの入浴剤入り―に浸かりながら、今頃になってその続きを聞きたいと思った。

 来週の土曜さ―会えないんだ。
 来週の土曜さ―ちょっと用事があるんだ。
 来週の土曜さ―・・・・・。

 いったいなんだったのだろう?明日はその問題の土曜日。
 私はお風呂を出て、携帯に登録された悠介の番号を出したり消したりしながら、落ち着きなく部屋を歩き回った。
 ようやく勇気を出して電話をかけたのは、それから2時間後のことだった。

「もしもし」

 久しぶりに聞く悠介の声。

「元気だった?」
「元気じゃないよ」

 素直な悠介の返事がなんだか嬉しい。

「ねえ、時間もらえないかな?」
「いいよ」

 私がそう言うのを待っていたかのように悠介は即答した。

「いつ、いい?」
「明日」
「明日っ?」
「そ、明日」

 明日は『土曜』だよ・・・と言いかけて、やめた。

「どこに行けばいい?」
「いつも待ち合わせる銀座のカフェに1時」
「わかった」

 じゃあ、と電話を切って喜んでいる自分がいた。
 来週の土曜さ―、の続きを聞くより、悠介に会えることが嬉しかった。

次回・最終回へ続く(2005年6月10日掲載予定)

第10話
2005年6月10日掲載

 数寄屋橋交差点近くのオープンカフェで、悠介はシフォンケーキを食べながら紅茶を飲んで待っていた。

「太るぞ、未来のスター」

 わざと茶化して向かいの席に座った。

「栄養補給」

 今までと変わらない悠介がそこに居る。
 時間を空けたのが良かったのかもしれない、と内心ホッとした。

「悠介、あのさ―」

 私が話し出す前に、悠介は1枚のチラシを私の前に置いた。

「今夜、これに出る」

 それはダンス・イベントのチラシだった。

「でも、若桜には来てもらいたくないんだ」

 私は悠介が言った言葉を理解できずにいた。

「どういうこと?」

 私たち、やっぱり終わりなの?
 一瞬にして心が暗くなる。

「俺、若桜に観てもらうか、ずっと悩んでた。でもこの間の海で確信した」

 来週の土曜さ―、の続きは、ダンス・イベントに出演するけど若桜は来ないで、だった―。
 それは私の予想を遥かに超えている。

「私はそういう相手じゃないってこと?」
「違うよ。若桜にはミュージカルの舞台に立ってる俺の姿を観てもらいたいんだ。それが俺の本当の姿だから」

 大人びた口ぶりだった。

「俺、若桜が自慢できる彼氏になるよ」

 そう言って照れくさそうに笑う悠介が眩しい。

「この間電話で話してたのは?」
「今回のイベントに参加する別のチームの子で、連絡事項を回してきただけだよ」

 穴があったら入りたい。自分の邪推を恥ずかしく思った。

「悠介」
「ん?」
「・・・ごめん。私が言ったこと・・・」 

 悠介は、分かってるよ、という顔をして私の頭をクシャっとした。

「リハーサルまで、まだ時間あるけどどうする?」
「動物園行かない?ゴリラ、見たいんだよね」

 あの時の悠介のように、私は言った―。


 今でも悠介は突拍子もないデートで私を驚かせる。随分慣れた―というより、最近では私もそのデートを楽しんでいる。

 このまま悠介との幸せな日々が続けばいい―。

 そう思っていた。
 あの電話がくるまで・・・・・。

舞台「キャッチ・ミー」へ続く

■ 小説「キャッチ・ミー」(プロローグ)は舞台「キャッチ・ミー」へとつづく!
柴田豪子(しばたひでこ)
演出山崎大輔
出演津川友美・岡田理江・池辺愛・坂田鉄平・岩永新悟
主催後援
協力(株)スーパーエキセントリックシアター (株)テグレット技術開発
場所ニッポン放送 本社ビル地下 イマジンスタジオ
公演日2005年6月11日 ・16:00〜  ・19:00〜
16:00の部 岡田・津川*・坂田・岩永
19:00の部 津川*・池辺・坂田・岩永
*16時19時の津川友美は別の役をやります。
チケット2,500円 (ご購入についてはこちらをご覧ください)終了しました

■ シナリオライター 柴田 豪子(しばた ひでこ)
映画制作・配給会社、芸能プロダクション、テレビ局を経て、シナリオ・センターへ入学。現在フリーにて創作活動中
小説の著作権はすべて柴田豪子に帰属します。(c) Hideko Shibata 2005 All Rights Reserved.


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